ごあいさつ

かつて仙台市青葉区堤通雨宮町にあった東北大学農学部の広大な敷地の一角に、一体の美しい観音像がひっそりと佇んでいました。

そこはかつて、国の礎たる幾多の人材を輩出してきた旧制第二高等学校があった場所であります。学生帽にマント、高下駄の二高生たちが、時に寮歌を高吟し、時に天下国家を論じるなど、人と人とが交わり合い、高い志が醸成された特別な場所でありました。

観音像の横には碑文があり、そこには次のように記されていました。

「この観音像は二高名誉教授粟野健次郎先生の記念像である。先生は元治元年一関藩士の家に生まれ、明治二十年弱冠二十三歳で新設の第一高等中学校教授に任ぜられ、ついで明治二十五年第二高等中学校教授に迎えられた。爾来昭和七年に至るまで実に四十一年の長きにわたって、一路二高で英語を教え、その間無類の学識、卓抜な警句、超俗の風格をもって幾千の二高生を傾倒せしめ、全二高生の敬慕の的であった。先生の致仕に際し、同窓会員は先生の肖像を造ってその功績を長く後世に顕彰しようとしたが、世の名聞に恬淡たる先生は自己の像を遺すことを許されなかった。よって知識と慈愛の権化たる観音像をもってこれに代えることにし、帝展審査員国方林三に嘱して、中宮寺如意輪観音を模した観音像を造って校庭に安置した。台石には荒巻山屋敷産の重量一万貫の巨石を選び、二高の校風である雄大剛健の意をあらわした。二高生はこれを粟野観音と愛称、朝夕先生を偲んだ。戦後二高の三神峯移転、教養部の川内移転に伴って三神峯、川内に移されたが、昭和五十三年十月最初の位置に復した。」

この碑文は、観音像が建立されてから約半世紀後の昭和五十六年十月、二高創立九十五周年の記念行事として製作されたものであります。こうして第二高等学校尚志同窓会によってその由来が刻まれ、粟野健次郎の名は観音像とともに永遠の命を授けられました。

退官の際には観音像が建立され、その約半世紀後に二高創立の記念行事として、あらためてその碑文を製作せしめる粟野健次郎とは、一体どういう人物だったのでしょうか。

“世の名聞に恬淡たる”健次郎は、かの文豪、夏目漱石さえも舌を巻くほどの無類の学識を誇ったと言われています。それにも拘わらず、「本を残すことは後世に恥を残すこと」として一切の著作を世に残しませんでした。それ故、ある教え子から「粟野先生ほど偉大で、かつ無名な人はいない」と評されるほど、世の名声からは程遠い人でありました。

平成六年に設立された粟野健次郎顕彰会では、こうした彼の功績のみならず、その人となりを明らかにして、教育の持つ偉大な価値を今一度世に問うことを目的として、種々の活動を行ってまいりました。こうした顕彰会の活動が、これからの在るべき教育の姿のみならず、現代にも通じる人としての生き方そのものを考えるきっかけとなれば望外の喜びであります。


粟野健次郎顕彰会