粟野健次郎について

粟野健次郎は「(旧制)二高の至宝」と評された教育者で、元治元年(1864)一関で生まれました。

新潟英語学校で学んだ後、単身東京に渡って図書館などで独学に励みました。古今東西の書籍を原書で読破し、天下の難関と言われた文部省中学校師範学校英語科教員検定試験に臨み、試験官が「後生恐るべし」と評するほどの抜群の成績で合格しました。こうして中学校英語教師の職を得た健次郎でしたが、当時の英語界の第一人者だった神田乃武から高く評価されて旧制第一高等学校(現在の東京大学教養部の前身)の英語教師に抜擢され、間もなく教授に就任しました。その後旧制第二高等学校(現在の東北大学教養部の前身)が新設されると、健次郎は明治25年(1892)に教授として赴任しました。

健次郎の教え子たちはその後各界で活躍し、国家繁栄の礎となりました。内閣総理大臣を務めた若槻礼次郎や文豪夏目漱石、物理学者で金属工学者の本多光太郎、詩人で英語学者の土井晩翠、文芸評論家の高山樗牛、大正デモクラシーの代表的な論客だった吉野作造など数多くの人材を育てました。教え子や同僚からの尊敬や信頼も厚く、二高退官後まもなく彼の退官を記念した観音像が建立され、その約半世紀後には二高同窓会によって健次郎の功績を記す碑文が観音像の横に製作されました。


このように健次郎は日本を代表する英語学者で、かつ優れた教育者でありました。しかし世の名聞に恬淡たる健次郎は、「書を残すことは恥を後世に残すこと」として遂に一冊の著書も残しませんでした。ある教え子から「粟野先生ほど偉大でかつ無名な人はいない」と評されるほど、健次郎は世の名声には程遠い人でした。


粟野健次郎略年表

> 粟野健次郎略年表 [PDF]